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日出若宮八幡神社
楼門
鳥居・石灯篭
大分県速見郡日出町2831‐1
日出若宮八幡神社は、千年以上の歴史をもつ日出町でも由緒ある神社です。天徳3年(959)、八津島宮より2親を勧請して建立されました。建久7年(1196)、豊後大友氏の始祖・大友能直(よしなお)が、豊後国7社の1社として崇敬し、新たに社殿を築造し社領を寄進しました。 しかし、大友氏が亡んだ後の文禄3年(1594)、豊臣家の直轄地となった日出の代官として毛利兵橘(ひょうきつ)が入ると、激しい性格をもったキリシタンであった彼は、社殿をことごとく破壊し御神体を海に捨て、境内に館を建てました。御神体は村民たちにより秘かに引き上げられ、安全な場所を転々とし祀られたそうです。 日出藩初代藩主・木下延俊が入国すると、慶長7年(1602)、破壊された神社を再建し、御神体を迎えて盛大な例祭を行い、復興を遂げました。神社はその後も代々藩主の崇敬を受けました。 神殿正面には重厚な趣の楼門がそびえています。この楼門は、元禄16年(1703)三代藩主・木下俊長によって建立寄進されました。 楼門には、矢大臣・左大臣の控えの間や花鳥の彫刻を配し、重厚さの中にも華やかさが見受けられます。この楼門は町有形文化財に指定されています。 境内には、時の日出藩主が奉納した鳥居や石灯篭が残されています。それらには奉納主の名が記されていますが、いずれも「豊臣俊泰(9代藩主)」「豊臣俊敦(13代藩主)」など「豊臣」の姓が刻まれています。これらは、「日出藩木下家は豊臣の一族である」という思いが各代藩主に受け継がれていたことの表われです。 ただし、初代藩主・木下延俊の奉納した鳥居には「木下右衛門太夫豊冨朝臣延俊」とあり、「豊臣」ではなく「豊冨」が用いられています。これは、豊臣家を滅ぼしてまだ日の浅い徳川幕府に憚ったものと考えられています。 毎年10月14日・15日の例大祭では、毛槍ひねり演武や神輿の海上渡御などの行事が行われます。
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日出若宮八幡神社は、千年以上の歴史をもつ日出町でも由緒ある神社です。天徳3年(959)、八津島宮より2親を勧請して建立されました。建久7年(1196)、豊後大友氏の始祖・大友能直(よしなお)が、豊後国7社の1社として崇敬し、新たに社殿を築造し社領を寄進しました。
しかし、大友氏が亡んだ後の文禄3年(1594)、豊臣家の直轄地となった日出の代官として毛利兵橘(ひょうきつ)が入ると、激しい性格をもったキリシタンであった彼は、社殿をことごとく破壊し御神体を海に捨て、境内に館を建てました。御神体は村民たちにより秘かに引き上げられ、安全な場所を転々とし祀られたそうです。
日出藩初代藩主・木下延俊が入国すると、慶長7年(1602)、破壊された神社を再建し、御神体を迎えて盛大な例祭を行い、復興を遂げました。神社はその後も代々藩主の崇敬を受けました。
神殿正面には重厚な趣の楼門がそびえています。この楼門は、元禄16年(1703)三代藩主・木下俊長によって建立寄進されました。
楼門には、矢大臣・左大臣の控えの間や花鳥の彫刻を配し、重厚さの中にも華やかさが見受けられます。この楼門は町有形文化財に指定されています。
境内には、時の日出藩主が奉納した鳥居や石灯篭が残されています。それらには奉納主の名が記されていますが、いずれも「豊臣俊泰(9代藩主)」「豊臣俊敦(13代藩主)」など「豊臣」の姓が刻まれています。これらは、「日出藩木下家は豊臣の一族である」という思いが各代藩主に受け継がれていたことの表われです。
ただし、初代藩主・木下延俊の奉納した鳥居には「木下右衛門太夫豊冨朝臣延俊」とあり、「豊臣」ではなく「豊冨」が用いられています。これは、豊臣家を滅ぼしてまだ日の浅い徳川幕府に憚ったものと考えられています。
毎年10月14日・15日の例大祭では、毛槍ひねり演武や神輿の海上渡御などの行事が行われます。