成清博愛(1864~1916)
的山荘(てきざんそう)を建てた成清博愛(なりきよひろえ)は、元治元(1864)年に福岡県山門郡瀬高町小川村(現:福岡県みやま市)で生まれました。成清家は代々、築城や河川の土木工事などに携わっており、地元でも指折りの財産家でした。
博愛は幼少の頃から私塾に通うなど高い教育環境で育ち、明治18(1885)年、22歳の時に親の薦めにより以恵子(18歳)と結婚。翌年には長男信愛(のぶえ)が生まれています。長男信愛が生まれた翌年の明治19(1886)年、博愛は妻子を残したまま慶應義塾に入学します。授業は欠かさず出席し、勉学に打ち込みましたが、大病を患い帰省を余儀なくされます。
この頃、地方では自由民権運動の風が吹き荒れ、博愛も政治に興味を持ち始めます。明治23(1890)年に父梅蔵は小川村長に、病も癒えた博愛は村会議員に推挙されます。その後の博愛は二男勝介を授かり、瀬高銀行の頭取に就任、父の跡を継いで小川村長に選ばれるなど、めでたいことが続きましたが、彼の心が満たされることはありませんでした。「自分はこのまま田舎でくすぶっていていいのだろうか・・・。」
当時は日清戦争による石炭特需で、麻生太吉や伊藤伝右衛門といった『石炭成金』が続々と世に出ていました。そんな中、博愛は一大決心しました。「男のロマンを追い求めるため、運を天に任せ鉱業で国家に貢献したい」と。以恵子は義父の遺言があまりにも正確にこのことを予告していることに驚きました。
明治29(1896)年夏、村長を辞職し、「神崎炭坑」を手に入れます。神崎炭坑は、明治30(1897)年8月に操業をスタートし、採掘・出荷共に順調に進んでいました。しかし驚くべき早さで破綻の波が押し寄せてきます。石炭価格の暴落で価格は半値にまで落ち込み、多額の負債を返済する計画は、あっけなく潰えてしまったのです。
隣接炭坑とのトラブルや友人との共同経営が行き詰まり多額の負債を抱え、また他の炭坑への多額の出金も石炭価格の暴落、炭鉱破綻で失うなど、失敗の連続でした。「周囲から山師、事業狂とののしられ、奈落の底にあった」と後に語りながらも、博愛の事業熱はいっこうに冷めることはありませんでした。
世間では金の需要が高まっていたことから、博愛は金鉱山に目を向けます。大分県内の金鉱山を探し270ヶ所以上を採掘しましたが、成果は上がらず債権者からの取り立ては日に日に厳しくなっていくばかり。
心身共に疲れ果てどん底にあった博愛は、藁にもすがる思いで馬上金山(ばじょうきんざん)へ向かいました。付近の畑を借り、密かに岩石
の調査を行います。大量の地下水を克服すれば宝の山になることを確信し、馬上金山の買収に乗り出します。
博愛は、当時馬上金山の持ち主であった帆足義方と、再三に渡る交渉を重ね、明治40(1907)年11月、17万円で買収しました。しかし、すぐに採鉱はせず、過去にこの場所で鉱主が挫折し続けた地下水の問題から着手していきました。大型ボイラーや、揚水機などの機械を導入することにより、地下水を排出し、新しい坑道を掘り進めて行きました。
買収金の支払を終え、明治43(1910)年11月10日、馬上八幡宮で「馬上金山開鉱式」を執り行い、採鉱を開始しました。採鉱が始まり博愛自らが鉱員の指導に当たりますが、手作業での採掘は困難を極めました。さらに周辺からの浸食を防ぐため、隣接の鉱区権を買いあさります。そんな試行錯誤を続けるある日、思いもよらぬ出来事が起こります。
その日は朝からの雨で地盤が弱くなり、坑道の一部が崩落、多くの鉱員が復旧に当たりました。その時です。崩れた壁面から自然金の放つ光を発見しました。「ゴールドラッシュ」の始まりです。早稲田大学に復学していた長男信愛は、大正元(1912)年博愛に呼び戻され、金山経営に専念していきました。
馬上金山ゴールドラッシュで一躍富豪の仲間入りをした博愛は、馬上金山近くに別邸を建てることを計画します。これが後に「的山荘」と呼ばれることになる邸宅です。
日出町三の丸の土地が日出藩主により売りに出されている事を知り、直接会って交渉を行い、取得しました。3,670坪の庭園に247坪の邸宅を建て、日出へ本籍を移し、大正4(1915)年1月に盛大な落成式を行います。
その後、
衆議院議員に当選しますが、心臓発作を起こした事もあり、半年あまりで辞職しました。療養の甲斐もなく、大正5(1916)年1月18日、息をひきとります。53年の波瀾万丈の人生でした。
同年5月8日には妻以恵子も亡くなっています。博愛の心残りはただ1つ、入院していた為に多くの苦労をかけ、支え続けてくれた妻以恵子をこの邸宅に招くことができなかったことでした。
成清信愛(1886~1946)
この頃の日本は大戦景気に沸き、金の需要は追いつかないほどで、馬上金山も開鉱以来の最盛期を迎えます。信愛は弟勝介と2人で「成清鉱業合名会社」を設立しましたが、その直後勝介は25歳の若さで亡くなりました。
1年も経たないうちに両親と弟を失った信愛は失意のどん底でした。しかし、落胆している時間はありません。豊富な資金で新たに「成清鉱業株式会社」を立ち上げ、再スタートしました。
馬上金山は、大正9(1920)年を境に金採掘量が徐々に減っていきました。堅実な事業をする信愛は、大正12(1923)年日本鉱業に金山を売却します。
彼は、鉱業の他、銀行や私立女学校の開校、県北の交通機関を統合し、大分交通をつくるなど様々な分野で活躍します。昭和17(1942)年には全ての鉱山業から手を引き、産業や地域の発展のために寝る間も惜しんで力を注ぎました。
やがて老人性結核を患い、昭和21(1946)年10月10日、60歳で息をひきとります。信愛の葬儀は4度にもわたり、彼の生前の偉業が分かる盛大なものでした。信愛の大分県経済への貢献はとても大きく、彼の死後7回忌には、功績を讃えて「成清公園」(現・二の丸館の向かい)がつくられ、公園内には顕彰碑が建立されました。
信愛は妻静子との間に五男一女をもうけました。長男正信は身体が弱かったため、東京でサラリーマン生活を送っていた二男信輔が呼び戻され跡を継ぎました。また弟達も父同様、県内の様々な産業や商業に貢献していきます。戦後の物資がない時代、その全てをきりもりしたのが、信愛の二男信輔の妻康恵でした。
信輔・康恵夫妻はこの邸宅の広大な土地と屋敷の維持管理に苦労し、買収話が持ち上がります。多方面に相談をした結果、昭和39(1964)年4月『割烹料亭
的山荘』を開業させました。豪華な庭園と建物の中で、天下の高級魚「城下かれい」を味わうことができる料亭として、的山荘の名は瞬く間に広がっていき、多くの皇族方や著名人から愛される場所となりました。開業以来「割烹料亭
的山荘」として経営を引っ張ってきた信輔・康恵夫妻は高齢のため引退し、平成11年春、信輔の弟梅蔵が引き継ぎます。
平成22年(2010)、的山荘は日出町の所有へと移り、平成23年(2011)から指定管理者による管理が始まりました。「城下かれい」や「日出の鱧」をはじめとする珍味を提供する高級料亭として、引き続き運営されています。
平成26年(2014)、的山荘は「旧成清家日出別邸」として、国の重要文化財に指定されました。大分県下における国指定重要文化財(建造物)は32件目で、この内「近代和風」と呼ばれる建築様式としては大分県第1号の指定になります。そして何よりも、日出町初の国指定重要文化財が誕生したことになります。
的山荘の国重要文化財指定は、成清家並びに日出町の歴史が国の歴史として守られるべきものと認めた証であり、 日出町の誇りに他なりません。