帆足萬里(1778~1852)
帆足萬里(ほあしばんり)は、三浦梅園(みうらばいえん)・廣瀬淡窓(ひろせたんそう)とともに「豊後の三賢」と称された日出藩時代の儒学者で、教育者として多くの子弟を育て、また政治家としても大いに手腕をふるいました。
彼は、安永7年(1778)、日出藩の家老・帆足通文の三男として、日出城下三の丸に生まれました。豊岡小浦の脇蘭室の門に入り、ほとんど日出の地
を出ることなく独学で研鑽に努め、十数部の蘭書を読みこなすなどして、経済、物理、医学、天文などの各分野に通じていました。萬里の学識は西欧の諸学者に 比肩するも
のであったといわれます。
天保3年(1832)、13代藩主・木下俊敦に請われて家老職につき、藩財政の再建にも功績を残しました。
天保13年(1842)には私塾「西崦精舎(せいえんせいしゃ)」を開き、多くの子弟を教育しました。塾生は多い時は130人余りいたといわれています。
西崦精舎があった場所(現・南畑地区)には、現在は記念碑が建てられており、これは明治時代に地元の人々が萬里を讃えて建立したものです。
嘉永5年(1852)、75歳で亡くなり、日出町佐尾に「文簡帆足萬里先生墓」と刻まれた墓碑が、日出城に向けて建てられています。墓碑を見ると所々が欠けているのが確認できます。これは萬里の学識にあやかるため、お守りとして持ち帰る者が後を絶たなかったためといわれています。墓は昭和33年(1958)に大分県史跡に指定されました。
毎年6月14日の命日には、萬里の墓所にて忌辰祭が行われ、「萬里先生讃歌」が合唱されます。
代表的な著書に、天文・物理から生物、人種・言語に及ぶ科学の体系書『窮理通(きゅうりつう)』をはじめ、政治や社会体制を論じた政治書で、吉田松陰も目を通したといわれる『東潜夫論(とうせんぷろん)』など多数の著書があります。