瀧廉太郎(1879~1903)
名曲「荒城の月」の作曲者・瀧廉太郎は、明治12年(1879)8月24日、東京市芝区佐久間町(現在の東京都港区)に生まれた。彼の父をはじめ、その祖先は日出町に生まれている。日出町佐尾の洞雲山龍泉寺には、廉太郎をはじめ瀧家の墓31基が眠っている。
瀧家の初代・瀧五郎左衛門俊吉は紀州の藩士であったが、江戸勤番の時、乱暴者を取り押さえた手柄が認められ、日出藩初代藩主・木下延俊に抱えられた。その
後、累進して武頭となり、恒川・山田・浅野と共に日出藩の四天王といわれた。以来、瀧家は11代260余年にわたり、日出藩木下家に仕え、日出藩の家老職 など
の要職に就くほどの名門の家系であった。廉太郎の祖父・平之進は帆足萬里の高弟で、天保3年(1832)、35歳にして萬里と共に家老を務め、萬里は4年
にして職を退いたが、平之進は嘉永元年(1848)まで17年間も勤続し、藩政の改革に当たった。
父の吉弘は、祖父の平之進が家老時代に二の丸で生まれたが、藩末には三の丸の二十番屋敷(現在の日出幼稚園)に居住していた。慶応元年(1865)に
11代を襲名し武頭となり、15代藩主木下俊程に命ぜられて洋式操練を習った。慶応3年(1867)の大政奉還、翌々年(1869)の版籍奉還により、藩主は日出藩知事となり、吉弘は権大参事、後に大参事に昇任し政務に携わった。
廉太郎が高等小学校の時、吉弘に、音楽の道に進みたいことを打ち明けると、吉弘の反対を受けた。しかし、廉太郎の意思が固く、吉弘が困り果てていたところ、廉太郎と懇意だった甥の大吉に相談した際、大吉に「人は各々天分を生かすべきだ」と強く忠言を受け、廉太郎の東京音楽学校(現・東京芸術大学)への進学が許された。この大吉の勧奨がなければ「楽聖・瀧廉太郎」は誕生していなかったかもしれない。
※土屋元作(1866~1932)は、福沢諭吉に見込まれて時事新報に入社。毎日新聞に転じ主筆となるが、その後、朝日新聞に転じた。日本ロータリーの発展に尽力し、大阪ロータリークラブにあって、東西の融和とロータリーの日本化に努力した、日本ロータリーの創成期に欠くことのできない人物である。
瀧廉太郎は自ら日出町出身であることを称し、日出町もまた廉太郎を日出町出身者として待遇していた。日出町出身者等で組織された「暘谷会」に廉太郎は入
会しており、暘谷会が発行していた『暘谷雑誌』には、廉太郎のドイツ留学に際して、「4月6日
瀧廉太郎ピアノ研究のためドイツ留学の途に上る。これより先東京日出出身者は萬安亭に於て送別の宴を張り、宇佐美健吉氏(のちに日出町長となった人)壮行
の辞を述ぶ」という記事が掲載された。
瀧家は代々日出町佐尾の洞雲山龍泉寺に葬られているが、廉太郎は大分市の万寿寺に葬られてい
た。それは、父吉弘が万寿寺の足利紫山和尚と親交が深く、「死んだら引導を渡してもらいたい」と言っており、自分より先に亡くなった廉太郎も、万寿寺に葬
られることとなったためである。廉太郎が眠る「瀧累世之墓」の墓碑の側面には、「豊後日出藩」という文字が深く刻まれている。その後の平成23年3月20
日、親族の意向により、万寿寺にある「瀧累世之墓」と、妹の「瀧 郁子
墓」、そして廉太郎が卒業した東京音楽学校の同窓有志者が建立した「瀧廉太郎君碑」が、祖先の眠る洞雲山龍泉寺に移設された。
日出町二の丸、日出城址前に瀧廉太郎の銅像がある。これは、朝倉文夫氏製作のもので、歌人の田吹繁子女史より寄贈された。朝倉文夫記念館、大分市遊歩公園、竹田市岡城跡、旧東京音楽学校奏楽堂にあるものと同型で、全国にこれら5体しか存在しない。田吹女史は、昭和13年(1938)に、東京で短歌雑誌『八雲』を創刊し、昭和49年(1974)から日出町中央公民館で短歌教室を発足。長期間に渡って講師を務め、町内の歌人育成に尽力した。そして、短歌教室の受講生により、田吹女史の短歌碑が日出城址に建立されたそのお礼として、昭和56年(1981)に日出町中央公民館に瀧廉太郎像が建立され、平成22年4月に日出城址前に移設された。
銅像には、「偉大な作曲家瀧廉太郎は日出町出身 よって朝倉文夫作のこの像を町の皆さまにおくる 1981年3月 田吹繁子」と刻まれている。
明治33年(1900)、音楽学校が中学唱歌を出版することになり、歌詞は当時一流の文士に委嘱し、その作曲は懸賞募集され、1人3曲以内の応募が認め
られた。当時、音楽学校の研究科に在籍していた廉太郎は、「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」の3曲を応募した。そして、この3曲全てが入選することにな
り、多くの人々を驚嘆させ、それまで単にピアニストとして優れた腕を示していた廉太郎は、一躍作曲家としてその将来を期待されるようになった。
「荒城の月」と共に作曲された「豊太閤」は、豊臣秀吉の功績を歌った曲である。日出藩の居城「日出城」(別名:暘谷城)は、豊臣秀吉の妻ねねの甥にあたる木下延俊が、慶長6年(1601)に築いた、全国的にも珍しい豊臣家ゆかりの城である。同時期に作曲されたこの2曲に共通点があるとすれば、それは「日出城」かもしれない。
廉太郎は、父吉弘の転任に伴い、家族と共に同行した。大分に帰り、竹田から東京の音楽学校に入学、そして「荒城の月」の作曲までは11歳から21歳までの10年間であるが、その間、家族とまたは単独で日出町に墓参りし、親族の家等を訪問したであろう事は想像にかたくない。その節、日出城の本丸跡の城下を訪れ、岸に砕ける波の音が、多感な青少年時代の彼の耳に残され、あの名曲の旋律になったのではあるまいか。